Digression

絵日記です。

好きな理由、が特に無い

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 絵を描くこと、好きは好きなんだけど、その好きな理由というのが特にこれといってない。数個前の記事に、好きなものを見つけることが大切だみたいなことを書いた割には、描くこと自体が好きな"理由"。これがみあたらない。
 実際無いのかもしれないし、うまく表せる言葉を持ってないだけかもしれない。この車はここの曲線が綺麗でいいな、とか、モチーフの好みの理由はなんとなくはっきりしてるが、描く行為自体が好きな理由は子供のころから今に至るまでよく分かっていない。描いている最中、今楽しいなという感覚が湧くことがあるが、別にそれを求めて毎回筆を手に取っているわけでもないような気がする。周りに、「自分の世界を表現できるから好き」という方がいたりすると、それっぽい理由を何も持ってない自分を不思議に思うことがある。特に表現したい世界観みたいなものも無い。せいぜい、目の前で今描いているものをいい感じに描こうと思うぐらいだ。
 つまり、「よくわかんないけどなんか好き」というだけで、今までこうして絵を描き続けてきたということになる。実にふわっとしている。
 ただ最近は、むしろ理由が無いからずっと描いていられているような気もしている。かつてSNSに触れていた時は、人が見て楽しくなるものを描いた方がいいのかと、描くことに理由をつくってしまった。しかしそれではうまくいかなかった。褒められることもあったけど、そのことが次に描くものをなんとなく縛ってくる感じがして、それが合っていなかった。ポストした後のことが頭をよぎると、あんまり手が進まなくなってしまうのだ。
 現在は、自分には描くのが好きな理由が特に思い浮かばない、という事象をそのまま認識するだけにしている。それが良いとか悪いとか、判断する必要はない気がする。あるものはあるし、ないものはない。それで十分充実するような。そこに勝手に良し悪しの価値判断を持ってくると、悩みの種として育っていきそうな予感がする。

変化と停滞

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 変化することをとても大切にしています。描くものを変えてみたり、描くものは同じでも描き方を変えたり、考え方を変えてみたり・・・できるだけ同じことの繰り返しにならないことを心がけています。いろいろやることで思いがけない拾いものがあるにはあるのですが、変化を重く見る大きな理由のひとつは、停滞を避けるためかなと思っています。

 停滞は飽きを呼び、飽きはそれをすることを遠ざけます。別に飽きて絵を描くのをやめてもはたから見れば何の問題も無いでしょうが、絵を描く喜びを見つけてしまった人にとっては、停滞や飽きを避けることはとても価値があることのように思います。

 停滞というのはこっちの都合に関係なく勝手にやってきます。まず予感として不意に頭をよぎる。気づいたら立ち止まっている感覚。最近同じことを繰り返しているような気がする・・・。この状態は苦しいものです。「なんのためにやってるんだっけ?」とか考えだしちゃったりして。時にはそういうものを考え込むことも必要かとは思いますが、一事が万事この調子だと疲れてしまいます。出来る限り早く抜け出したいところ。

 過去の自分を振り返ってみると、自分のことを色眼鏡無しにフラットに観察できる状態なら、停滞を察知して抜ける手段も浮かびやすいのですが、何かに執着しているとだんだん避けるのが困難になります。たとえば、褒めてもらえることに執着して、それに合わせて同じようなものを量産したりとか。今にして思えば、それによって一時的な欲は満たせたとしても、本当はその執着により心の自由を縛られているのだから、渇望のループは止まりません。いつも何か足りない感覚があるのに、前に進んでいる気もしない。これでは苦しいのも道理・・・。個人的には、この手の欲への執着は停滞を促す大きな要因になるので、できるだけ抜けるのが良い気がします。(このテーマについては、別の記事をつくってもう少し書こうかな・・・)

 中には物事を続けていく上でどうしても通過せざるを得ない停滞もあると思います。絵に関しては、経験上、同じ勾配で成長が目に見えるタイプのものではありません。例えば新しいやり方を取り入れようとすると、やればやっただけその瞬間瞬間で成長が見えるのではなく、ある程度停滞期を経た後に、自分の中で一気にバラバラだったかけらが統合されて画面に現れたりします。しかもその停滞期では、自分が前より下手になっちゃったように見えることもしばしばあります。成長するためには見かけ上とは言え後退しなくてはならないなんて、皮肉ですよね。でもそうしなくては身につかなかったものが今の自分にはいくつかあります。だからそういうものに対しては、もう自分を信じてやり続けるしかないのかなと思っています。

 ここで言う自分を信じるというのは、無根拠に「自分なら絶対できる!」と思い込むことでは決してなくて、ただやってみて、ダメならダメで、また次に進もうというような、余分な思い込みのないフラットな姿勢のことです。思い込みに振り回されず、どれだけフラットに心を保てるかということは、自分自身との勝負の分かれ目になる気がしています。

願い

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 以前は、いついつまでにこういうものが描けるようになっていたらいいなとか、未来に漠然とした願望を抱きながら絵を描いていました。そしてその願望通りになったことはほぼありません。大概、元々の予想とは大きく離れた道を歩くことになってきました。

 ただそれは、そんなに悲しいことではないように思います。予想できない、不確定な未来のことはとりあえず横に置いて、目の前のものをあるがままに見つめる。そんな姿勢を保っていたら、とても気が楽に、しかもずっと遠くまで行けるような気がします。何より、心を目の前の絵に満たすことができます。これが嬉しい。

 最近は、未来に願いを抱きながら描く必要を感じなくなってきました。未来への願いは、原動力になりますが、同時に鎖に化けて自分を縛ることもあります。絞めつけがきつく感じたら、時に外してみるのもいいかもしれません。

自由に描くために

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 以前からずっと、もっと自由に描きたいと思っていました。白いキャンバスに向かっていると、どこからともなく湧いてくる漠然としたしがらみに制約を感じていました。真っ白なキャンバスが目の前にあっても、自由に描くというのは時に難しく感じられます。どう描けばイメージ通りに見えるのかわからないとか、他人や自分自身の期待とか、いろいろなものがまとわりついてきます。しかし最近、そういうものから大分解放されて、純粋に絵を描く行為そのものに身を投じている感覚をよく得られるようになってきました。そこで今回は、自分を縛る制約から解放されて自由を感じられるようになるのに役に立ちそうな方法について書いてみます。小手先の方法は比較的重要ではないと思うので、もっと根本にある姿勢のようなものについて2つ書いてみようと思います。

 

・掛け値なしに好きなものをみつける

 自分が本当に好きなものって何なのか、案外自分自身でもよくわからないことがあります。私自身もこれを探しあてるのに長い時間がかかりました。自分のことぐらい自分でわかるなんて思ってたら、そうではありませんでした。私の経験から言うと、「あ、いいな」と思って何かに目を留めたとき、それのどこに良さを感じたのかを振り返ってみると見つけやすいと思います。じっと考えてみて、「よくわからないけどなんかいい」と思ったら、きっと本当に好きなものです。しかし何かそれが好きな「理由」が見つかったら注意です。例えば、鞄を目の前にしたとき、「この鞄を身に着けていると人からおしゃれに見られる。だからこの鞄が好き」となると、少し曇りを感じます。この場合、本当に好きなのは、その鞄自体というより人からおしゃれに見られることかもしれません。

 そしてもし自分自身による評価だけで掛け値なしに好きだと言えるものを見つけることができたら、それは自由に描くための心強い原動力になるでしょう。他人の評価は、時代や環境など自分ではどうしようもない力によってあるとき突然消失したりねじ曲がったりします。そういうものにだけ沿ってしまうと、それがぶれたときに、「あれ?自分はいったい何が好きだったんだっけ?そういえばなんで描いてるんだっけ?」ということになってしまうかもしれません。一方、自分で考え抜いて見つけ出した好きなものというのは、外からのノイズに影響を受けません。いつでもここにもどってこれるという軸になります。この軸があると、余計な不安に影響を受けず、絵をよくすることに集中でき、結果的に楽しく自由に描けることにつながると思います。

 

・現実世界をよく観察する

(ここでいう現実世界は、他人の絵でないものという程度の意味で使っています)

 実際の自然、人工物、歴史、文化をよく観察するのはとても有効だと思います。外の世界には心を動かす引き金になるようなものがそこかしこに存在します。現実にない創作がしたいのだから、現実を見る必要はないのではと思われることがあるかもしれませんが、現実があるから相対的に非現実なものが存在できるので、そういった場合でも現実世界から学べることは多いと思います。一方、他人の創作物はその人の解釈という名のフィルターを通してできたものであり、それは現実世界から一定の情報を抽出し、余計な部分は切り落とした状態のものです。他者によって省略された情報が何なのかわからない場合、なかなか応用をきかせることが難しくなります。しかし、現実世界をよく観察していると、それを基に省略された情報を自分なりに埋めることができ、資料としてうまく活用することができるようになります。具体的には、正面顔と横顔の資料がある状態から、斜めから見た顔を描きだせるようになる、といった感覚です。

 

 他にもいくつかあるのですが、特にここしばらく自分自身に大きな影響を与えているかな、と思った考えを書いてみました。

惹かれる文と絵の謎

 

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 最近よく自分が惹かれる文章について考えていました。どうやら、その人自身が何を考えたり感じたりしているのか、筆者の血の通った文章に強く惹かれるみたいです。普遍的に正しいかどうかよりも、その人のアイデンティティを感じられる文章を面白いと思います。

 以前このブログに記事を書くときはよく、「役に立つ」ような記事を書こうとしていました。その方がなんとなく価値があると思っていたからです。でも読み手としての自分の視点で見ると、役立つかどうかは結構どうでもよくて、自分自身の考えとか思ったことが書いてある記事の方が文章としては読みたくなります。もちろん、役に立つ記事は必要で、解決したい問題があるときはとても助かります。でもそういうときってあくまで主眼は問題解決であり、その問題が解決した次の日には大抵書いた人のことも、あるいは読んだことすら忘れてしまうことも少なくありません。読んだ人の記憶に残るような文章を書きたいとは思いませんが、自分で文章を書くならせめて自分が読みたくなるような文を書きたいなと思いました。

 で、上のようなことは自分の中では絵についても共通していることに気づきました。漠然としていますが、僕は/私はこう思ってる!というのが感じられる絵が好きです。そこは技術ではカバーできない独立した部分で、落書きを見て「おお、これは!」と思うこともあれば、派手で緻密な絵を見ても特に関心が浮かばないこともある、そんな現象の原因のひとつであるような気がします。その辺で拾った付け焼刃ではなく、表面的に他人と区別できるかどうかも関係なく、自分自身の内側からくる自己同一性を紙の上に表現できたら、それこそが個性がある絵だと言えるのかなと思いました。

雑記

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 ここ数カ月、絵についてたくさんのことを教えてもらいました。指導してくれた方は生徒のやり方や嗜好をとても尊重してくれて、これが正解、というような言い方は一切せず、こういう考え方もあるよ、という風に優しく、でも経験に基づいたはっきりとした新しい道を示してくれました。生徒だけでなく、インストラクター自身も毎週教え方を改善しようと試行錯誤されていて、そこに人間性の深みのようなものを感じました。そんな姿勢は、彼の絵にも表れているように見えました。これからもし何かを教える側にたったときは、そんな風に振る舞いたいと思いました。同時に、おそらく自分は絵を見るとき、その絵の中に描き手の人柄や意思の軌跡を勝手に感じ取ろうとしているのだと思いました。

内なる声を聞く

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 世の中的には内なる声より世間の声、なのかもしれませんが、私自身にとって心の声が聞こえなくなることは、もっとも恐ろしいことのひとつだと感じています。 作品をつくってどこかに投稿すると、評価が出ますが、その評価は時に、自分の内なる声・心の声を、本人でさえ気づかないうちに隠してしまいます。

 昔の自分自身の体験からなのですが、例えば、「褒めてもらえたから、次も同じような作品にしたほうがいいのかな?」なんて思ったりします。 それを繰り返すと、気が付いたら自分が何を作りたいのかよくわからなくなってたり。 でも「なんか違う」というもやもやした感覚はなんとなくずっと感じ続けることになります。 なぜなら、内なる声は自分自身そのものであり、たとえ聞こえなくなったとしても消えることはないからです。

 案外自分が心の底から描きたいものなんて、自分自身でさえなかなか分からなくて自然だと思います。自分で自分のことぐらいよく分かってる、というのは大抵錯覚だと思います。自分の行動の多くを、人は意識の力だけでコントロールできません(でも、脳は「自分はコントロールできている」と錯覚させるみたいです)。 少なくとも私の場合はゆっくりと霧が晴れるようにして、ようやく最近自分が好きなものが分かってきました。 でも確実な見つけ方みたいなものはわかりません。 強いて言えば、好きだと感じるものを意識して生活することぐらいでしょうか・・・? ただ、描きたいものがわかって、それを描いているときほど楽しいことはありません。 私の中では最も充実した感覚が得られる時間です。 だから自分自身の内なる声を聞いて、本当に好きなものを探す価値は、大いにあると思います。